軍務尚書閣下は多忙だ。現在の軍務尚書閣下の場合、前職もそれはそれは多忙であったのだが、現在の忙しさはその比ではない。
とはいえ、冷血漢、鉄面皮、技術開発局の作った参謀ロボ、などと揶揄される人物であるので、傍から見ているだけではその多忙さはわからない。
「俺、最近忙しくってさぁ」などと将官クラブでくだを巻くこともなく、疲労を(他者が見てわかる程度に)顔に滲ませることもなく、黙々と働いている。
古今東西の謀事には全て一枚かんでいるように見える軍務尚書閣下の仕事はさぞ多かろうと誰もが思うのだが、それと「多忙」の二文字は何故か結びつくことなく、周囲の諸将からは「ほら、あいつだからそんなもんじゃないか」と捉えられていた。


しかし、そうは思えない人物もいるようだ。
「すまないが、今晩は残務があるので一緒に過ごせない」
多忙なる軍務尚書閣下は携帯端末に向かって話す。通話相手は恋人だろうか。
まさかあの老ダルマチアン相手に詫びているわけではあるまい。
「約束をしていたならば時間も作れるが、今日言われてすぐには無理だ。すまないが…」
いきなりの誘いを受けろとは無理な話だ。
軍務尚書閣下ほどではないにしろ、閣下の仕事に付き従う我々ですらいきなりの誘いは受けかねるというのに。

どうも通話相手の恋人殿は納得できないらしい。

「ああ、君が言うことはもっともだ。君が正しい。オンとオフの切り替えは大事だとも」
軍務尚書閣下の恋人殿は無茶を言う。
時間を作ろうにも、オンとオフを切り替えようにも物理的に無理な時だってあるのだ。

そういえば、先々月に振られた彼女にも「じゃあ時間っていつ作れるのよ!」と何回も怒られたものだ。
私は彼女の言葉をうんざりしながら聞き流していたのだが…。
軍務尚書閣下はどうだろうか。

「では来週末はどうだろう?ああ、君が忙しいか。そうか、すまない。いや、君も忙しいことを忘れていたわけではないが…」

閣下の声音が僅かに変わる。冷静という名の巨大な水槽に一滴の困惑が混ざった程度だが、旧帝国時代からの部下たる我々にはわかる。
閣下は恋人殿の言葉に動揺し、困惑しているのだ。

「だからすまないと…いや、謝れば良いなどと思っているわけではないが…君はいったいどうすれば許してくれるんだ」

何たることか!
ドライアイスの剣が溶けかけている!

あまりのことに呆然と見つめるしかない。
我々の視線にようやく気がついた閣下は、携帯端末を耳に当てたままこの場を離れていった。
扉の向こうからは引き続いて閣下の謝罪する声が聞こえる。

古今東西、全ての謀事を企てていそうな軍務尚書閣下でも、恋人殿を思うがままに操ることはできないようだ。

微笑ましいような、そうでないような。
軍務尚書閣下すら振り回すわがままな恋人殿の存在が羨ましいような、そうでないような。


はてさて、そんな恋人殿の顔を拝んでみたいような、そうでないような…。

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