官舎の扉を閉じた途端に噛みつくように口づけた。
青臭い小僧じゃあるまいし、我ながらがっついているなと自嘲するが、この官舎にたどり着くまでさんざん焦らされたのだから仕方がない。
 このロイエンタールという男は色めいた誘いを仕掛けてくるくせに、ファーレンハイトが誘いに乗ろうとするとするりと猫のように逃げて行ってしまう。
飲みに行く機会を得ても、その先を匂わせれば「次の機会に」と逃げられる。
その際に何もなければ諦めもつこうものだが、軽く口付けるとか、意味ありげに際どい部分に触れるとか、そういったことを仕掛けてくるものだから、まったく性質が悪い。
 「次の機会」にはもっと良いことがあるのではないかと、ずるずるとロイエンタールの魔性にはまり込んでしまう。

 ロイエンタールとファーレンハイトが体を合わせるのは今日が最初ではない。
今、事に及ぼうとしているファーレンハイトの官舎だけでなく、ロイエンタールの官舎や、おおっぴらに言えないような場所でさえ互いの体を味わったことさえある。
それでもがっついでしまう。
それがロイエンタールの外見的魅力によるものか、それともその魔性めいた手管によるものか、ファーレンハイトにはわからない。

そんな理由を考えるよりも、目の前の獲物を味わうべきだろう。

 口づけはますます深くなる。唾液を交換するように互いの舌を差し入れる。
ロイエンタールの手がファーレンハイトの後頭部を捉え、口づけが浅くなるのを阻みはじめた。

ノッてきたな、とファーレンハイトは内心ほくそ笑む。

先日はここまでで逃げられた。だが、これならばこの先に進むことは難しくないだろう。

 口づけの深さは変えずに、ロイエンタールの腰に手を回し、下半身を密着させる。熱を持ち始めた股間同士が布越しに触れあい、ロイエンタールの方がわずかに震えた。その体を膝で少しずつ押しやりながら、終着点へと向かう。
目指すはリビングダイニングのソファだ。
寝室は遠すぎる。たどり着くまでにロイエンタールの熱が冷めてしまっては元も子もない。
 甘い言葉をささやきながら口づけを交わし、いい雰囲気で寝室へたどり着いたはずが、するりと逃げられてしまった苦い経験がある。
 だが、今日はいける。自らの後頭部をつかむロイエンタールの手の強さと下半身の熱さから、ファーレンハイトはそう確信していた。

 ソファへたどり着き、膝を落として、押し倒すような姿勢で倒れこんだ。
さあ、上着を剥ぎ取り、シャツをたくし上げ、極上の果実を味わうのだ。
勇んでそう臨もうとしたファーレンハイトだが、それまで後頭部を押さえていたはずの手が離れ、ファーレンハイトの胸を押さえた。制止のサインだ。

何故?ここまできて?今日はいけるだろう?

 ファーレンハイトの脳裏にはいくつもの疑問符が浮かぶが、言葉には出せない。それほど突然であったし、予想外のことであったのだ。

「嫌だ。今日はもう終わりだ」

 薄い水色の瞳に浮かぶ疑問に、ロイエンタールはにべもなく答えた。その声音に先ほどまでの色はまったく滲んでいない。
平静そのもの。平静というよりも、凍えるように冷たい。
 ファーレンハイトを押しのけてロイエンタールはソファを離れ、すぐ脇にあるダイニングチェアに腰かけながら乱れた衣服と髪を整える。
その様子に「また逃げられた!わがまま猫め!」とファーレンハイトの感情がかっと沸き立つ。
 しかし、常と異なるロイエンタールの様子に気が付いた。
常であれば、するりと逃げた後に、意地悪く意味ありげに笑っているはずの男が、今日は全く表情を失くしている。
ダイニングチェアに腰かける彼は身づくろいを終えると、白い両手で顔を覆っていた。

これはおかしい。
何があった?何が彼の熱を奪い凍えさせた?
新たな疑問符が薄い水色の瞳に浮かんだ。

「ソファは嫌だ」

 指の隙間からファーレンハイトの瞳に浮かんだ疑問を見て取ったロイエンタールは静かな口調で語り始めた。

「面白い話をしてやろうか?いや、卿には面白くないかもしれんが」

 寒々しささえ感じる口調にファーレンハイトははっとする。思わず姿勢を正し、ソファに深く腰かけた。

「親に疎まれたこどもがいたんだ。姿を見せれば詰られる、時には殴られる。使用人たちは遠巻きに眺めるだけで、誰もこどもを助けやしない」

 これは、ロイエンタールの過去だろう。
まっとうな、家族や周囲の大人に愛されて育ったのではないだろうと、彼の人となりからそう薄々と感じていたファーレンハイトだが、彼自身の口からそれを聞くのは初めてだ。

「それでもこどもというものは度し難いものでな、あさはかに期待をし、夢を見る。いつか親が自分を愛してくれるんじゃないかとな」

「夢などみるものじゃない。そんなものを見るから騙されるんだ」

 ロイエンタールは白い両手で顔を覆ったままだ。その表情はファーレンハイトからうかがい知ることはできない。
指の隙間から見える金銀妖瞳だけがぎらぎらと輝いていた。

「ある日、夢見るこどもは親から言われるんだ、「さぁ私の膝にお乗り」とな。…それは、こどもの夢の通りだった。大きなソファで、大人の膝の上に抱かれて、優しく撫でられる!…まったく夢の通りだ!」

 声音が大きくなるが、そこに熱はない。

「まったく夢のままだったさ!撫でてもらえたよ!うれしくてこどもは生まれて初めてというくらいに笑ったんだ。…だが、そのうちに気づく、夢は夢であって現実ではないとな。現実はまったくの悪夢そのものだと!」

 その声はあくまでも寒々しい。そのせいだろうか、白い両手が震えていた。
こどもに何が起こったかなど、その先を聞かなくてもわかる。

 ファーレンハイトには何も言葉が思いつかなかった。
いったい何を告げればいいのか。
「それは可哀そうに」?「児童虐待はまったく許せませんね」?「よいカウンセラーを紹介しましょうか」?
どれもこれも空虚だ。この美しい青年の胸の内には何一つ響くまい。

 途方に暮れたファーレンハイトはロイエンタールと同じように両手で顔を覆った。
ため息をついて、ようやく言葉を絞り出す。
まったくナンセンスだ。ばかばかしい!それでも思いついた言葉のうち、消去法で最後に残ったのがこれなのだから仕方がない。

「…で、ロイエンタール提督、ソファが嫌ならどこならいいんですか?」

 わずかな沈黙の後にロイエンタールの吹き出す声が聞こえた。

「ベッドなら…ベッドであれば、嫌じゃない」

 顔を覆う指の隙間から伺い見たロイエンタールは先ほどまでのように顔を覆っておらず、いつものように意地悪く、意味ありげに笑っていた。
わがままな性悪猫のように。

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