かの美しい青年の名を口したアガーテは、青年と同じように瞳に哀しみを漂わせていた。そこにただならぬものを感じたグレダは、他の奥さん連中に断り、アガーテを連れて茶話会会場を出る。婦人会役員をしている友人が控室として使っている部屋に誰もいない事を確かめると、アガーテを呼び入れた。

「息子のお友達ですからね。一度ぎりしかお会いしてませんけど、存じておりますよ」
 掛けられていたコートやショールをどかし、アガーテを椅子に座らせてからゲルダは先ほどの質問に答えた。座ったアガーテの顔からは先ほどまでの頬笑みは消え、俯いた表情には哀しみしか浮かんでいない。思わず彼女の手を握って驚いた。その手は同じ年頃の女のように水仕事に荒れているが、薄っぺらでか細い。皺やしみはあるものの、まるで少女のそれのようにか弱く感じられた。少し冷たい手に温度をわけてやるように自分の厚みのある手で擦ってやった。
「あたしはね、みなさん知っておられると思うけれど、お節介焼きのおばさんですからね。貴方みたいに哀しそうにしてるひとをみると放っておけないんですよ。だからふつうの人はききにくいことだってききますからね」
 握った手を擦りながら、ゲルダはそう切り出した。俯いたままのアガーテの鳶色の瞳を覗きこんで「ふつうのひとはききにくいこと」を口に出す。

「オスカーさんは…いいえ、オスカー・フォン・ロイエンタール閣下と貴方に何があったの」

 アガーテの瞳に涙が溜まり、痩せた頬を伝い落ちていく。鼻をすすりながらアガーテはオスカー・フォン・ロイエンタールとの過去を語りはじめた。



 お可哀そうなオスカー坊ちゃま!
 あたしはかつてあの方のお世話をしていたことがあるんです。大きなお屋敷でしたから、坊ちゃまのお世話をするための使用人もおりましたし、家庭教師もおりました。いいえ、あたしはただのハウスメイドでしたから、そんな大層なお役目ではありませんでした。
 でもあのお屋敷には坊ちゃまのお世話をする人間はあたししかいなかったんですよ。旦那さまは坊ちゃまを疎んでおられましたから、あのお屋敷の使用人にとって坊ちゃまは透明人間のような存在でした。お食事もお布団も用意しますけれど、だあれも坊ちゃまを抱きしめてやりはしなかったんです。
 さっきの講演で奥さまはおっしゃいましたよね。「子どもにしてやるのはお腹いっぱい食べさせてやること、目いっぱい叱りつけてやること、力いっぱい抱きしめてやること」って。お屋敷はとっても裕福でしたけど、その3つを坊ちゃまに与えて差し上げることはなかったんです。
 ええ、おかしいでしょう。お勤めをはじめてすぐ、あたしもそう思いました。子どもを抱きしめてやらないなんて、おかしなことだって!使用人部屋できいてみたりもしたんですよ。「何だって坊ちゃまを抱きしめてやらないのか」って。だあれもまともに答えてくれやしませんでした。「お前はこのお屋敷にきて日が浅いからわからないだろうが、坊ちゃまもことは仕方がないんだよ」って。
 あたしの家には弟や妹がたくさんいましたから、ええ、あたしだってお節介焼きだったんでしょうねえ。周りにそんなことを言われても気にしませんでした。子どもは抱きしめてやらなきゃって。
 坊ちゃまはね、日の射さない広いお部屋のね、いつも隅っこにおられたんですよ。だからあたしはまずお部屋のカーテンを開けてやったんです。それから坊ちゃまを抱え上げて日の当たる窓辺に連れていって。気候のよい時にはお庭にもお連れしました。お可哀そうに、坊ちゃまは「おんもはこわい」と泣きだしてしまって。
 本当に、年より小さくて痩せっぽちで、大人がお世話しなかったもんだから、ちょっとおつむが遅れたところもあったんですよ。本当にお可哀そうな方だったんです。
 それでもねえ、旦那さまや目上の皆さんの目を盗んで坊ちゃまのお世話をしているうちに健やかになられて。ちょっとおつむが遅れているんじゃないかって思ってましたけど、体が元気になるのと一緒にぐんぐん賢くなられて。あたしがお勤めをはじめて4年も経つ頃には、難しい本だってすらすら読めるくらい賢くおなりでした。
 「ぼくの一番のともだちはヘクトーとアガーテだ」ってあたしをぎゅうと抱きしめてくださったりしたものです。ヘクトーっていうのは犬なんです。大きな黒い犬。旦那さまが飼っておられたから犬は他にもたくさんいたんですけれど、坊ちゃまのおそばにいたのはあの犬だけでした。あとの犬は全部おっかなくって、旦那さまと世話をしていた使用人しか近付けなかったんですよ。
 良いことをしたとそう言っていただけるんですね。いいえ、いいえ、良いことだなんてあたしは何一つきりできていないんです。良いことをできたのは犬のヘクトーだけ。あたしは坊ちゃまのおそばを離れて、お屋敷を出て行ってしまったんですもの!
 ええ、仕方がなかったのかもしれません。嫁にいくことが決まりましたから。断ることなんてできませんでした。でもね、あたしはやっぱり坊ちゃまを捨てたことには変わりないんです。一番の友達だっていってくだすったのに!
 坊ちゃまのことをずうっと案じておりました。お食事は召しあがっておられるかしら。寒い晩に震えておられないかしら。誰かあたしのように抱きしめてくれる大人はいるかしら。
 その内にずいぶん長いこと過ぎて、坊ちゃまが立派な軍人におなりだと聞きました。ニュースでもお姿を拝見しました。本当に立派なお姿でした。でもね、何だかお小さい頃のようにお寂しそうに見えたんです。だから、今日、奥さまにお会いできたら聞いてみよう、聞いておかなきゃって。



「オスカー坊ちゃまは幸せにお過ごしでしょうか」
 俯いたまま話していたアガーテはそこで初めて顔を上げてゲルダの瞳を真っすぐに見つめた。真っ赤になった瞳は変わらず涙で揺らめいていた。
 懺悔のような、そんな話だった。ビッテンフェルト家を訪れた青年の哀しみの源を覗きこんだような心地がした。痩せっぽちで可哀そうな子どものことを思うと胸が痛む。アガーテは子どもを「捨てた」と言っていた。「良いことなどしていない」とも。だが、ゲルダは思う。結果として子どもから離れてしまわねばならなかったとしても、子どもを抱きしめてやった事実は消えない。あの青年の心にもその事実は確かに残っているに違いない。そうでなければ、あんなに柔らかな表情を浮かべることなどできないだろう。かつてアガーテに愛された事実があればこそ、ビッテンフェルト家の魔法が効果したのだ。
 アガーテの痩せた頬を、子どもにそうするように拭ってやる。
「オスカーさんが幸せかどうかは直に尋ねたわけじゃないからわからないけれどね。うちの次男坊がね、オスカーさんを見て、そりゃあ幸せそうに笑うんですよ。あの子にあんな顔をさせてくれる人が不幸なわけがないわ」
 拭った頬をぱんと軽く叩いて、笑いかけると、つられた様にアガーテも薄く微笑んだ。笑顔を確かめてから、彼女の耳に顔を近付けるとこっそりと囁く。

「内緒なんですけどね、我が家には来た人みんなが賑やかに笑うようになる魔法がかかってるんですよ。…だからオスカーさんもじきだわ。もうじき魔法がちゃんときいてくるに違いないんだから」

 少女同士の内緒話のように囁くと、アガーテは小声で「ありがとう」と呟き、それから声を上げて笑った。泣き笑いに近い表情はゲルダに良い魔法の存在を感じさせた。


 あ、次男坊も坊ちゃまも不在だ.。
もう坊ちゃまはお嫁にいくしかないね!

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