ビッテンフェルト家の人々は賑やかだ。「人を褒めるときは大きな声で、人の悪口を言うときはもっと大きな声で」という家訓をはじめに言いだしたのは誰だったろうか。少なくともゲルダが嫁いできたころにはすでに「家訓」と言われていたし、ゲルダがやんちゃが過ぎる次男坊を叱りつける際には自身も口にしていた。
 あたしだって若い時分には「物静かで上品なお嬢さん」だったのよ、などと言ったところで、もう誰も信じてはくれない。ゲルダもすっかりと賑やかな「ビッテンフェルト家」の一員だ。
 賑やかな一家を訪れる人々もどういうわけだか賑やかだ。親戚連中はもちろん、夫や舅の知人・友人、息子らの友人、娘の友人、そしてゲルダ自身の友人もそうだった。男連中が集まって酒が入ればもちろん大声で笑い、語り合うのだが、ゲルダの友人である奥さん連中が集まり、茶だけが供されていてもそれは同様だ。
 舅の親が建てたというこの家には、住む人や訪れた人を賑やかに喧しくしてしまう魔法でもかかっているのではないだろうか。ゲルダはそう思う。悪い魔法ではない。時に怒鳴り、泣きわめくこともあるが、多くの場合は声を上げて朗らかに笑うのだから、良い魔法に違いない。夫を戦争で亡くした娘も、しばらくは泣いて暮らしていたが、実家に戻ってからはまあ賑やかなこと。よく喋り、よく笑う。学問を修めた息子らに言えば笑われるだろうが、ゲルダはこの家にかけられた「良い魔法」の存在を確かに信じていた。

(あのひとにももっと良い魔法がかかればいいのにねえ)

 古びた窓枠を拭き清めながらゲルダは昨年の降誕祭にこの家を訪れた人物を思う。次男坊の大切な友人であるらしい青年はとても美しいひとだった。すらりとした長身に上品な物腰、何といってもあの金銀妖瞳の魅力的なことといったら。娘時代に思い描いた物語の王子様や騎士様のようだった。どこか哀しそうで辛そうにも見えるその美貌がますます物語の登場人物のようで。「悪い魔法をかけられた美しい騎士様は心からの笑顔を奪われてしまったのでした」そんな一節がぴたりと当てはまった。
 玄関をくぐった時には緊張していた風な青年にも、少しはこの家の良い魔法がかかったのだろう。食事の途中には「心からの笑顔」とまではいかなくとも、随分と柔らかい表情をしていた。翌朝、この家を発つ頃には、はにかみながらも微笑んでくれたものだ。
 だが、「賑やか」には程遠い。微笑む青年の美しい瞳にはやはり哀しそうで辛そうな色が残っていたのだから。次男坊と同じく忙しい青年がこの家を訪れることは、これからもそう多くは望めないだろう。もっとこの家にいる時間が増えれば、良い魔法はどんどん増して、あの青年から哀しみを取り去るに違いない。この家を訪れることがなくとも、喧しい次男坊を介して良い魔法が彼に影響を与えられればいい。

 窓枠掃除を終えて壁掛け時計を見れば、そろそろ出かける準備をしなければならない刻限だった。掃除道具を片付け、使い込んだエプロンを脱ぐ。何年か前に長男と嫁が贈ってくれた余所いきのワンピースに着替え、束ねた髪に次男坊が贈ってくれた髪留めを差した。
 路地を抜けて大通りに出る。途端に冷たい寒風が吹き、身を竦ませる。凍てつくような風だが凍えず歩くことができるのは、娘が一昨年に編んでくれた襟巻と手袋のおかげだ。貴婦人がするようなどんな高級品にもこの温かさはないに違いない。手袋に包まれた手をふくよかな頬に当て、歩いていると見知った奥さん連中がゲルダに手を振った。

『ビッテンフェルト夫人に学ぶ子育て法』

 市民ホールに掛けられた横断幕にはそう書かれていた。見上げたゲルダはため息をつく。講演だなんて大それたことはできないと幾度も断ったのだが、婦人会の役員には親しい奥さんも多く、結局引き受けることとなってしまった。やんちゃしかしていなかった次男坊が今では立派な大将閣下だ。この大きくもない町では一番の大出世なのだから、こうした催しも致し方がないのかもしれない。

「…いえね、大したことは何一つ。何一つだってしていやしませんよ。あたしがフリッツにしてやったのは、お腹一杯ご飯を食べさせてやること、目いっぱい叱りつけてやること、それから力いっぱい抱きしめてやること、それだけなんですからね」
「……みなさん、あの子がお国のために働く偉い軍人さんになったって褒めてくださいますけどねえ。やんちゃなまま大きくなっただけですよ。やんちゃが過ぎて大将さまになんかなってしまって…」

 時折笑い声も混ざり、最後には大きな拍手で講演を終えることが出来た。ゲルダが舞台袖に控えていた友人に「こんなのでよかったのかしらねえ」と呟くと、友人は拍手をしながら「こういうのがいいのよ」と笑った。客席からはざわめきと笑い声が聞こえる。袖にいる婦人会の役員たちもみな朗らかに笑っていた。緊張の名残で高鳴る胸を押さえ、ゲルダも笑った。ここにも我が家の魔法がかかったにちがいない。

 講演の後は茶話会が催された。奥さん連中がそれぞれ持ち寄った焼き菓子をテーブルに広げ、亭主の悪口やら嫁への愚痴を面白おかしく話す。辛辣な言葉ではあるものの、縁を切るとかそういう結論には至らない。ゲルダの座るテーブルでも、定年を迎えて家にいる亭主が如何に役に立たないかとか、嫁がどんなおかしな失敗をしたかとか、罪のない悪口に盛り上がっていた。もちろん、一番声が大きいのはゲルダだ。
「ゲルダ、あなたとお話ししたいって方がいるのよ」
亭主が酔っぱらってひっくり返ったという話しをしていると、先ほど袖で話した友人が肩を叩いてきた。傍らに見知らぬ女性を連れていた。
「今日の講演、とても素晴らしかったわ。ぜひとも夫人とお話ししたくて」
アガーテと名乗ったその女性はゲルダより少し若いくらいで、羨ましいことに娘時代と変わらないのではと思うほどに痩せていた。痩せているせいで鳶色の瞳がより大きく見える。アガーテは微笑んでいるものの、その鳶色の瞳にはあの青年と同じような哀しみが漂っていた。

「…ビッテンフェルト夫人はオスカー・フォン・ロイエンタール閣下をご存じでしょうか」


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