主人が泣いていた。
他の人間のように涙を流しているわけでも、我々のように鼻を鳴らすわけでもなく、ただただ静かに俯いているだけだったが、主人は確かに泣いていた。
 理由はわからない。
あの大きな声の男や、時々やってくる無礼な客人が何か主人を侮辱したのかもしれない。
 それとも単に人恋しいのか。
 理由はわからないが、主人は今日も泣いていた。

 私は主人に寄り添い、濡れた鼻先を近付けた。

 主人の尽きぬ悲しみが、わずかながらも癒えることを祈りながら。



 今宵も軍務の合間を縫って、ロイエンタールとビッテンフェルトは逢瀬を楽しんでいた。
 二人ともに男性であるから、女性の多くが望むような事後の寝物語やじゃれ合いに興味はない。
事に至るまでは気も盛り上がり、叙情的な空気も漂うが、事が済めばその空気はあっさりと消え去ってしまう。ある程度の後始末をして、いくらか喉を潤した後、普段ならそのまま寝入ることが多い。
 しかし、今日はどうにも眠りの神に見放されたようだ。
互いにそれと望んだわけではなかったが、寝物語に興ずる以外の過ごし方が見付からない。
 それぞれ居心地悪く寝返りを打ってから、ぽつりぽつりと会話が始まった。

「卿は犬を飼ったことがあるか?」

 ごろりと向き直ってから、ビッテンフェルトは尋ねた。

「犬を?なぜだ?」

「いや、でかい屋敷にはでかい犬がいるだろうて思ってな」

「いなかったわけではないが…」

「ほう、そいつはでかかったのか?」

 興味深げに声のトーンを上げたビッテンフェルトにロイエンタールは苦笑し、かつての愛犬の姿を思い描いた。
 瞠目すれば、瞼の裏にはっきりとその姿が浮かんだ。

「ロットワイラーだから、大型犬の部類に入るだろう」

「でかいのか!そいつはいい!」

「でかい犬が好きなのか?」

 尋ねてから、ロイエンタールは尋ねるまでもない質問だったかと思う。
ビッテンフェルトの瞳は好奇心に爛々と輝き、声のトーンとヴォリュームは徐々に上がってきている。
何より、このビッテンフェルトがチワワやミニチュアと冠の付く小型犬を愛玩する姿など想像がつかない。

「飼うならでかい奴に決まっているではないか。俺も昔は飼っていたのだぞ。近所の公園に捨てられていた奴でな、何の血が入っているとも知れん雑種だったが、なかなかにでかくなってな」

 愛おしそうに目を細めてビッテンフェルトはかつての愛犬と過ごした日々を語り出した。

「我が家は子どもがそれぞれ一匹ずつ動物の世話をするのが決まりでな。兄貴は和種のでかい雑犬を、妹は猫を飼っていて、それにお袋の鳥に、ばあさんの金魚…と、金魚は妹の猫が食っちまったか」

「そいつは…賑やかなことだ」

 犬猫鳥、そして子どもたちがひしめき、ぎゃあぎゃあと喚く様子を思い描き、ロイエンタールはくつくつと喉を鳴らして笑った。そういう賑やかな家庭であれば、己の意思を伝達するために声がでかくなるというのも必然だろう。

「芸が出来るというわけではなかったが、賢い奴でな、俺の言うことしか聞かんし、俺がやったのでなければ餌も食わなかったのだぞ。親父に怒鳴られたり、兄貴と喧嘩したり、お袋にメシ抜きの罰を食らったり、俺がしょげた時には、いつもそばにいてくれた。最高の相棒だったのだ」

 笑みを深くして思い出を語るビッテンフェルトの声は大きいが、穏やかな響きに満ちている。賑やかでやかましいが、温かい家庭だったのだろう。彼の声音と表情がそれを物語っていた。

「卿の犬はどんなだった?ロットワイラーといえば、でかくて賢い犬種だろう?」

 ビッテンフェルトの問いかけに、ロイエンタールは微笑みつつも息を吐いた。ロイエンタールの家庭はビッテンフェルトのそれとは違う。大層裕福だが、温かみなど存在しなかった。

「ああ、賢い犬だった…」

 ロイエンタールは呟き、過去に思いを馳せる。瞠目したその顔に、頬笑みはもう浮かんでいない。

 一番古い記憶は、迫る刃だ。目の開いたばかりの新生児にそれほどの視力はないし、見えた画像を認識する力もない。覚えているわけもないのだが、冷たい刃が目の前に迫る瞬間が記憶の底にへばりついている。
 あとは、父親からかけられ続けた呪詛のような言葉と、母方の親戚連中から真綿で首を絞めるような嫌味。どちらからの視線も冷たく、凍えるようなものでしかなかった。
 使用人たちは憐れみをもってロイエンタールに尽くした。「お可哀そうなオスカー坊ちゃま!」と、そう憐れみ、ロイエンタールに温かな寝床と食事を用意した。だが、それも父親の目の届かないときに限られていたし、可哀そうな子どもを抱きしめる腕も差し出さなかった。

「あれだけだったな、俺のそばにいたのは」

 ぽつりと呟いたロイエンタールは、肩口まで毛布を引き上げる。心なしか目元が常よりも蒼い。
 ロイエンタールの過去を、ビッテンフェルトは知らない。だが、あまり良い物ではなかったのだろうとは勘付いていた。豪奢だが冷えた屋敷と彼の人となりがそれを語っていたためだ。
 過去を語るロイエンタールから、すうっと音を立てるように温度が失われていくのを感じ、ビッテンフェルトは毛布の下の恋人の体を抱き締め、自分の胸に押しつけた。凍えた体に熱を分けるように、ぎゅうと力を込める。
 虚をつかれた形のロイエンタールは、一瞬目を大きく開き身を固くしたが、すぐに色の異なる両の瞳を閉じ、厚い胸に身を預けた。そして、再び息を吐いて微笑む。

「あれもこうだった。卿のように抱きしめてはこないが、ぴたりと俺に添って、鼻っ面を俺の顔に付けるんだ」

 思い出の中の幼いロイエンタールにそばには黒い犬がいる。広く豪奢な部屋の中で顔を伏せ、膝を抱える彼に犬は寄り添い、時に濡れた鼻先をぴたりと付ける。小さな主人を護り、慈しむために。
 その様はビッテンフェルトにもありありと想像することができた。冷たい屋敷の中で、悲しみに凍える少年を犬は温めてやっていたのだろう。その想像は悲しく、より一層ロイエンタールへの愛おしさが募った。
 きっと彼の犬もこうやったのだろうと、己の喉元に見える額に鼻を付けた。

「寒くはないか?」

「いや、今は…ああ、今は温かいな」

 しばらくの間、二人はぴたりと抱き合っていた。その内に眠気が襲ってきたのだろう。ロイエンタールの肌がじんわりと温かくなったのをビッテンフェルトは感じ、それに誘われて大きく欠伸をした。




 主人はもう泣いていない。
他の人間のように笑うわけでもなく、我々のように尻尾を振るわけでもないが、主人はもう泣いていない。
濡れた鼻先から主人の悲しみが癒されたことがわかる。

 何が主人を悲しませるのか、私にはわからない。
だが、私だけが主人の悲しみを癒し、そばに寄り添うことができるということはわかる。

 誇らしい気持ちが胸に満ちて、私は主人の頬を舐め上げてから、大きく尻尾を振った。 


 タイトル元の映画と内容には何の関連もありません。
犬ロイ(というと身も蓋もない)でした!

 犬って何で飼い主がしょんぼりしてるのがわかるんでしょうか。悲しい時とかしんどい時にはいつもと違う臭いがするっていう説をきいたことがあります。

 きっとビッテンもそういう感じでロイの心の機微がわかるんですよ。第六感的な感じで。

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