勤務を終え、待つものもない官舎の扉を開ければ、何やら違和感を得た。
室内灯が点いている。
 やや古いこの官舎に人感センサー式ライトなどという便利なものはない。
はて、出掛けに消し忘れていただろうか。

 首を捻りながら室内に入る。上衣の襟をくつろげつつ、廊下と言っていいかわからない距離を歩き、リビングダイニングに至ったところで、信じられないものを見てしまった。
いや、見てはならないものを見てしまったという表現の方が適切だろうか。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 男の気ままな一人暮らしだから 、多少散らかっていようが気にしないし、食事は外で済せることが多い。
家政婦もメイドも雇った覚えがない。そもそも、今自分を迎えているような人物を雇いたいなどと欠片も思わない。
 信じがたい光景に頭を抱えていると、眼前の人物は訝しげに首を捻り、もう一度先ほどの第一声を繰り返した。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 何度まばたきを繰り返して見返しても、眼前の光景は消えない。上官たるオスカー・フォン・ロイエンタール上級大将閣下がそこにいた。

「ここは小官の官舎ですが、なぜいらっしゃるのですか」

 当然の問いかけを美貌の上官は鼻で笑った。

「愚問だな、ベルゲングリューン。理由など、俺がこの官舎に来たかったからに決まっている」

 理由になっていない。

「…酔っていらっしゃるのですか」

「退庁してからすぐにここにきたからシラフだ、ベルゲ…いや、ご主人様」

 シラフでなぜこの語尾が出てくるというのか。驚きを通り越して呆れるしかない。深い、深いため息が自然とこぼれた。

「閣下、閣下ご自身の意思でここにいらっしゃるということは理解しましたが」

 句点の間にもため息が混ざる。

 「なぜここに来たいとお思いになったのか、それを伺っているのです」

 「ご主人様」などというふざけた語尾については触れない。嫌な予感がするのだ。触れてなるものかと思う。
 ため息を交えて問えば、美貌の上官は大仰に肩を竦めた。芝居がかったこういう動作さえサマになるのだから、つくづく美形というのは得だと思う。

「来たいから来たのだ。そこに何か理由がいるか。ご主人様の帰宅を迎えたいと思ったのだ」

 …だから、なぜ「ご主人様」なのか。
どちらかというとそれは私から上官へ向けるべき言葉ではないのだろうか。
今まさにぐらぐらと揺らいでいるものの、赤毛の上官を失って以来、この美貌の上官に忠誠を誓ったのだから。
 どうにも話がかみ合わない。「来たいから」と上官はのたまったが、何の用があってのことか。
 この美貌の上官に忠誠を誓ってからしばらく経ったが、これといって私的な付き合いをした記憶はない。飲みに行くことはあっても他の幕僚を交えて海鷲に行く程度だ。官舎を訪ねてこられるような付き合いをしていた覚えはない。
 何か気に障ることがあって叱責をするために訪れたのかと考えてみるが、わが身を顧みてもそうそう思い当たる点はない。そもそも美貌の上官はいつものように人の悪い笑みを浮かべているだけだ。叱責ということであればストレートにその場で言ってくるに違いない。皮肉屋でクールな面もあるものの、ある程度近しい人間にとってこの上官の喜怒哀楽はわかりやすい。
 渋面で考え込んでいると、上官は訝しげに柳眉をひそめ長い指でもって容の良い唇を撫でた。

「喜ばないのか」

「何を喜べとおっしゃるのか。『拙宅に僥倖いただきまして恐悦至極』とでも申し上げるべきなのでしょうか」

 ため息を交えて問い返せば、美貌の上官は再び大仰に肩を竦めた。先ほど唇を撫でていた長い指は艶やかなダークブラウンの髪を掻き上げる。いちいちサマになっている。つくづく美形というのは得だと感心してしまった。

「種明かしをしてやろう」

 優雅に長い脚を組み直し、上官は言葉を続けた。

「今日の午後、ちょうど卿が席を外しているときに『メイドさんは男の夢』という話になってな。俺にしてみれば、あんなものは実家にごろごろいたし、夢もへったくれもないんだが、レッケンドルフが食い下がってきてな」

 にやにやと笑いながら上官は話す。「メイドさんは男の夢」とは、あの一見真面目そうなレッケンドルフにそういう性癖があったとは知らなかった。
 とはいえ、人の性癖などあまり知りたいものではないから、知らなかったのも仕方がない。

「で、たまたま今度の演習の件でやってきたミュラーにも話を振ってみたら、奴も似たようなことを言ってくるわけだ。奴曰く、富裕な貴族以外の貧乏貴族や平民の男であれば皆同じ夢をもっている、とな」

 真面目で温厚を絵に描いたようなミュラー提督もそういう性癖があったとは。いやはや人は見かけによらない。
 最近、帝都の繁華街に「メイド喫茶」なる店が乱立しているそうだが、そこに足を運んだりしているのだろうか。ミニスカートの「メイドさん」にやに下がる軍の高官というのは面白い見ものかもしれない。

「『おかえりなさいませ、ご主人様』と迎えてくれれば、疲れもたちどころに吹き飛ぶのだそうだ」

 何が「疲れもたちどころに吹き飛ぶ」だ。私はその無責任な発言のせいでどっと疲れに襲われたというに。思わず階級が上の青年提督に毒づいてしまう。

「で、卿もそうなのかと試してみたわけだ」

 言い終えた美貌の上官はにっこりと笑った。
 そもそもどこから間違いであると指摘するべきかわからないほどだ。私は件の副官や青年提督のような性癖は持ち合わせていないし、そもそもあれは可愛らしい女性が「メイドさん」であるから嬉しいのであって、いくら美形でも男の上官にされたところで逆効果だろう。
 こめかみに手を当て、何度目かの深いため息をこぼす私の姿に、美貌の上官はますます笑みを深めた。
 卿はどうだ、「メイドさん」が好きか、と色の異なる両の瞳で問いかけられる。

「趣味は人それぞれでありますから、レッケンドルフやミュラー提督を否定する気はありませんが、小官にそういった趣味はありません」

 笑みに細められる金銀妖瞳が猫のようだ。きっと今回の来訪も気まぐれな嫌がらせなのだろう。そういうところも猫を思わせる。
 上官はソファから立ち上がると、立ちすくんだままの私の横にするりと歩み寄る。耳元に唇が付くかと思うほどの近さだ。
 動揺が私の背筋を強張らせた。

「卿がどういった趣味なのか、知りたいものだな」

 低く耳元でそう囁くと、上官は先ほどと同じようにするりと身を動かし、離れていった。
 後ろ手にひらひらと振る手が見えるが、私の体は竦んだまま動こうとしない。
 そのまま玄関へ向かい、官舎を出て行ったであろうことを確かめると、私は今日最大のため息をついた。
 低い囁きとともに吹き込まれた吐息の感触が耳に残り、熱い。まるで愛撫のようだと思ってしまう自分自身がおかしかった。




 ベルロイってロイの誘い受けというか襲い受けがないと成立しないですよね。
とりあえず、偉そうにふんぞり返ったべっぴんさんが「おかえりなさい、御主人さま」と言うのを書きたかっただけです。
 ミュラーさんは結構アレな趣味を持っているといいなぁ。

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